宮田眞砂「花物語」

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――夢を見た。
六十年前の夢だった。
女学校の裏庭にある温室で、お姉さまに抱きしめられた。
木蓮の銘仙がよく似合っていたから、お姉さまは木蓮の君だ。でもそのときは指輪の君だった。金紗の紋付羽織りから伸びた指のたもとに、婚約指輪が光っていたから。私はお姉さまの指からその指輪を抜き取って、天井から垂れ下がる耳飾りのようなフクシアの花に、そっと隠してしまいたかった。そうすれば、お姉さまが私だけの木蓮の君に戻ってくれると、頑是ない夢を抱いて。
心配しないで、とお姉さまはいった。卒業してマダムになっても、孝子はずっと私の大事な妹だよ。それは生涯変わらないことだよ。そんなお姉さまの言葉を、私はちっとも信じなかった。だって結婚して誰かのものになったら、どうしてお姉さまは私のお姉さまでいられるだろう。ひとの妻がどういう存在かなんて、母を見ていればわかるのに。
誓いを、あげるね。
お姉さまの指先が、私の顎をくいっと上げる。
くちびるに触れた感触は、柔らかく甘くしめやかだった。
そのときの光景は、セピア色に色あせることなく、いまも極彩色のまま私の胸に残っている。
温室の窓から射しこむ光が、眩しくて目を閉じた。

  †
  
「あー! おばあちゃん、どうして私の本読んでるの!」
目を開けると、リビングの窓から射しこむ光が眩しい。
本を読み終えて、いつの間にか眠ってしまっていたようだった。膝のうえ、文庫本がずり落ちそうになっている。表紙には深い色の制服を着た少女たちが微笑むイラスト。
「あら、いけなかった? でもとても面白かったわよ。いまもこういうの書く作家さんがいるのね」
「……そう? いまもって?」
「ふふ、おばあちゃんが芽依ちゃんくらいの歳にもね、こういうのが流行ったの。女の子が女の子と特別な関係を結ぶ話。みんなそれを真似したものよ。エスっていって、このお話みたいに姉妹になってね」
「ふーん……」
なにかいいたげな様子の芽依に、微笑みながら文庫本を差し出す。お姉さまができたら教えてね、と私がいうと、顔を赤らめて、知らない! なんていう。
ぱたぱたと階段を駆け上がる、その制服に包まれた後ろ姿を懐かしさとともに見送った。
あれから六十年が経ち、いい時代になった。
女にも参政権が与えられ、私たちは自分で自分の人生を選ぶことができるようになった。女が女と添い遂げる、そういうことも可能だろう。願わくば、あの芽依が大人になってどのような世界をつくっていくか、それを見てみたい気もする。でもきっと、それはもう私の役目ではない。
「あ、おばあちゃん、桂子さんきてるよ」
芽依が階段から顔を覗かせていう。孫の部屋の窓からは、家のまえに伸びる長い坂の様子がよく見える。あのひとが杖をこつこつと衝きながら、けれど背筋をぴんと伸ばして坂を昇って歩いてくる。その光景を幻視する。
「そう? ありがとう」
立ち上がると、身体が軽い。それを考えるだけでいまもこんなに華やいだ気分になれる、その気持ちを芽依はもう知っているだろうか。いまもその季節にいる彼女には、きっと想像することもできないだろう。そのころの思い出が、人生でどれだけ燦然とした光を放つかなんて。
「……おばあちゃんと桂子さん、仲いいよね」
ぽつりとつぶやいた彼女に、私は笑う。
「ええ、仲いいのよ。とってもね」
いそいそと玄関にむかってドアを開けると、そのひとが午後の日差しを浴びて立っている。顔には大分皺が増えたけれど、その美しさはあのころと少しも変わらない。白地に木蓮柄を散らしたワンピースがよく似合う。
「やあ、ごきげんよう孝子」
「ごきげんよう、お姉さま」
ポーチから垂れ下がる耳飾りのようなフクシアの下、木蓮の君が花のように笑った。

作家コメント
ふたりの偉大な作家と、いまはもういない彼女たちに
参考 宮田眞砂作者pixiv
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