藍瑠れい「たとえば月面基地で君とおにぎりを食べたい」

焼きたてのトーストを無駄にしてわたしたちは走った。眼の前で杏里のポニーテールが揺れ、リュックにつけられた栗のキーホルダーもちゃるちゃると音を立てて揺れた。腹を空かせた猿たちが激しく木を揺さぶっているみたいだった。猿たちの毛並みはぼさぼさで眼は血走り口からは涎を垂らしている。「ぐぁくぅうぁぁぁ」と猿たちは幹を揺さぶり、殴り、爪を立てる。彼らは木にのぼることができない。なぜなら――
「くぅああ」
立ち止まり、杏里がうめき声らしきものをあげた。
「これもう間に合わんくない?」
右から走ってきた電車が彼女の声をかき消し、
「終わったね… 帰ろう。帰って寝よう」
左から走ってきた電車がわたしの声をかき消した。
ここの踏切は「開かずの踏切」だった。朝の通勤通学ラッシュにはタイミングが悪いと一〇分以上は遮断機が降りたままになる。警報音を耳にしてわたしは走る速度を落としたが、杏里は逆だった。間に合わないのは最初から明らかだった。でもわたしはそれを口にしなかった。
スマートフォンを操作する杏里のとなりで、わたしは髪を押さえて立っていた。轟音を立てて走り去る電車の窓から多くの人々の顔が見えた。誰もみな疲れていて無表情だった。これから一日が始まるというのに。まだ朝なのに。
遮断機が上がった。人の群れが一斉に動き出し、わたしたちもそれにつづいた。
「またミキセンに嫌味言われんのかなー。めんどくさぁー」
「ごめんね」
「なんで桐子があやまんの? 桐子は悪くないじゃん。悪いのは目覚ましだよ。ちゃんとセットしたのに鳴らないとかありえんし」
わたしが誕生日プレゼントとして杏里に送った目覚まし時計だった。ちゃんと使ってくれているのも嬉しかったし、突然のお願いだったのに一晩泊めてくれたのも嬉しかった。母親が男を連れ込む家になんていたくなかった。
「電池がずれちゃったんじゃないかな。落としたりすると、たまにあるみたいだよ」
「ん。帰ったら確かめてみる」
「うん」
大丈夫なはずだから。その言葉をわたしは飲み込んだ。アラームを解除したのはわたしだった。たまたま早く起きて、杏里が寝ているうちに目覚まし時計の設定をオフにした。すこしでも長く杏里と一緒にいたかった。杏理の寝顔を見つめていたかった。
「桐子~! 早く!」
杏里がポニーテールを揺らす。その先に電車の姿がもう見えている。進路希望調査の提出期限は今日だった。まだなにも書いていない。親に見せてもいない。わたしはなににもなりたくなかった。わたしの望みは杏里と一緒にいることだった。どこだって構わない。ジャングルでもサバンナでも、火星でも月面基地でも。ふたりきりで大事な水を分け合い、ゆっくりとおにぎりを食べて過ごしたい。
それだけ。
でも杏里は全力で電車に向かって駆け出し、わたしは彼女の背中を追いかける。手の届かない場所で果実が揺れる。本当は手が届くはずだった。鎖を付けられた猿たちのように、わたしはわたしを縛り付けていた。

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