藍瑠れい「台風前夜」

あなたの汗ばんだ背中に火照った額を押し当てる。「くっつかないでよ。うっとうしい」ぶっきらぼうにあなたは言うけど、わたしを引き離そうとはしない。セックスを終えて日常の戻るまでの時間。あなたはいつもわたしに背を向ける。顔を見られまいとする。さっきまでさんざんだらしない表情を見せ、あられもない声をあげていたくせに。だからわたしはあなたに寄り添う。日常に戻ろうとするあなたを――上司という仮面を手探りする女を――引きとめる。
古いビジネスホテルだった。クリーム色の遮光カーテン、大きな音を立てて唸る空調。滑りのわるい引き出しにはお決まりの聖書が入っている。ベッドサイドのデジタル時計は2時24分を示していた。あと4時間後には出勤しないといけない。
計画運休が発表されたのは日曜日の午後だった。月曜日の始発から8時まで首都圏のJRと私鉄が運休になる。そのニュースが入ってすぐ各部署で社員の勤怠日と通勤経路を確認した。業務開始時間には少なくともふたりは出勤している必要があった。出勤が難しいのなら前日に職場近くのホテルに泊まるしかない。選ばれたのはわたしだった。
あなたがわたしを選んだ。
「どうしてわたしなんですか?」
ホテルに着き、明日の会議資料を作成しながら訊ねるとあなたは困ったように「迷惑だった?」といった。
「いえ」エクセルのマクロを修正し、数値を確認する。「迷惑なんかじゃないです。ただ、どうしてかなって」
2週間前に初めてあなたと寝てから、あなたはわたしを避けているように見えた。上司と部下なのだから業務上の話はするが、それだけだった。酔ったあなたを誘ったのはわたしだった。そしてすべてが終わったあと、あなたはわたしに背中を向けてひとことも喋ろうとしなかった。
嫌われたのかもしれない。あなたにとってあの夜のことは思い出したくもない汚点なのかもしれない。
そう考えると気が塞いだ。
「同じホテルに誰と泊まるか考えたとき、最初に思い浮かんだのがあなただったの」あなたは申し訳なさそうに言った。「ごめんなさい」
作成中のデータを全消去しそうになった。落ち着けとわたしは自分に言い聞かせた。深く息を吸い、あなたを見る。あの夜とおなじ深く暗い瞳が微かに揺れていた。風が唸り声をあげ、窓を叩いた。台風が近づいている。すぐそこまで来ている。差し伸べたわたしの手をあなたは拒まなかった。

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