藍瑠れい「噴水とフランケンシュタイン」

なにを考えているのかわからない眼で、鳩は私のローファーを見ていた。脱ぎ捨てられたローファー。地面に置かれたそれは靴というよりも浜辺に漂着した異国の木の実のようにも見える。
鳩は興味をなくしたようだった。首を動かしながら別の方向へと歩き出した。食べられないと悟ったのだろう。私が会社をさぼってここにいることにも、吹き上がる噴水にも、まったく興味を示さず鳩は公園を歩き回っていた。
会社には風邪だと伝えた。間違いじゃない。すこし熱っぽいし、体もだるい。でも休むほどじゃない。ただ、行きたくなかっただけだ。満員電車にうんざりしたのかもしれない。上司の嫌味に耐えられなくなったのかもしれない。自分でもわからない。
社会人失格。
胸のなかでつぶやく。「別にいいんじゃない」彼女がここにいたらきっとそう言っただろう。
あの夏の午後のように。
「たまにはさぼりなよ。そうしないと壊れちゃう。そんな音、なんども聞いたよ。グラスのなかで大きな氷が溶けたときの音に似てる。からん。その音が聞こえたら、もう、終わり。もうダメなんだよ」
ダメなんだ。私が言うと彼女は頷いた。
「あの人もそうだった」
「あの人?」
「うん。わたしをつくった人。わたしを棄てた人」
そう言って彼女はタピオカのストローに口をつけた。新しくできたタピオカ店の行列に並んでいると「それ『ぽけぽこ』ですよね?」と声を掛けられた。人当たりの良さそうな女性が私に微笑みかけた。それが彼女だった。
バッグにつけていたゆるキャラのグッズのことを話しながら行列を進み、タピオカを買うころにはすっかり親しくなっていた。
「噴水にコインを投げ入れるみたいに、自分の存在をどこかに投げ入れたくなっちゃうことある?」
タピオカを飲みながら彼女はそう訊ねた。私は頷いた。
「この噴水にはね、いろんな人の名前が沈んでるの。噴水の前で佇んでいるのはそんな人かもしれない。名前を噴水に投げ入れた誰か。名前のない猫。名前を持たない怪物」
フランケンシュタイン。
まるでスイーツのメニューを読み上げるように彼女はそう言った。
彼女とはそれきり会っていない。でも、ときどき、彼女のことを考える。グラスのなかで溶けていく氷。笑わない猫。棄てられたフランケンシュタン。
「からん、」
彼女が悪戯っぽく笑う。噴水に夏の陽射しが輝く。靴を脱いで、ベンチの上で膝を抱え、私は彼女をただ想っている。

無断転載・複製・翻訳を禁止しています!
当サイト内のすべての絵と文の転載はご遠慮ください。 無許可の転載、複製、転用等は法律により罰せられます。発見した場合は使用料を請求させていただきます。

コメントを残す