藍瑠れい「紫陽花と炎」

人差し指の付け根がしびれるように痛んで、だるく、彼女の声は遠かった。お昼過ぎからずっと眠っていたせいかもしれない。体調不良で会社を早退しようやく起きたところだった。痛いのは指だけではなかった。相変わらず喉もしつこく痛みを訴えていた。
「火事だよ」
彼女がいった。
耳を澄ませてみたがサイレンは聞こえなかった。いつものことだ。窓の外はすっかり暗くなっている。昼間に降っていた雨はどうやらやんだようだった。そんな雨上がりの暗闇を彼女は真剣に見つめていた。
待っていた。
ポカリ取ってきてくれない? そういいかけてやめる。いまの彼女になにをいっても無駄だ。ベッドから出るとめまいがした。遠いむかしの傷が心に立てるさざ波のようだった。大丈夫。この程度の傷なら――めまいならなんてことない。やり過ごせる。
でも、まだめまいから回復しきれないうちにその音は聞こえてきた。
サイレン。
彼女を見る。彼女の顔に表情らしきものはなにも浮かんでいなかった。わたしはそっと眼を逸らし、人差し指の付け根をぎゅっと握った。

「ずっと遠くからでも消防車のサイレンに気づけるんだよ」
彼女がその話をしてくれたのは付き合う前で、ふたりでお酒を飲んでいたときだった。自慢する風ではなく、むしろどうでもよさそうに彼女はいった。
「他の人にはまだ聞こえなくても?」
「そう」
「耳がいいの?」
「ううん。普通。子どもの頃からなぜか消防車のサイレンだけは誰よりも早く気付くの」
「雷みたい」
「え?」
「雷は最初にピカって光って、そのあとに音が聞こえるでしょ。なんか似てる気がする」
「わたしが『火事だよ』っていったら、そのあとにサイレンが聞こえるってこと?」
頷くと彼女は「そんなこと初めて言われた」と微笑んだ。火事を告げる雷。
「でも、本当は早く聞こえなくなればいいと思ってるんだ」彼女はいった。「サイレンが早く聞こえるからってわたしに何かできるわけじゃない。時々、消防車なんて消えてしまえばいいと思うこともある。夢を見るの。紫陽花の咲き乱れる庭に朽ちた消防車がとまってる。もうどんな炎を消すこともなく、どんなサイレンを鳴らすこともない。雨のなか、ほかの紫陽花に混じってきらきら光ってる」
――わたしはそれを待ってるんだ。
彼女の手がわたしの人差し指にふれた。火事だよ。彼女の声が、きこえた。

コメントを残す