藍瑠れい「漂着する。君の隣で。」

 破り捨てたカレンダーは微かに潮の薫りがして、首筋が引きつるように痛んだ。日焼けの痛みではなかった。
(言ったでしょ? ここは海に沈んだ都市なの)
 乾ききっていないのか、カレンダーはやわらかく、葡萄の皮に触れているようだった。ふやけた月めくりのカレンダー。力を入れて破いた。
(イザナらしいね)崩れた鐘楼に腰をおろして彼女は言った。(拾って、捨てる)
 瓦礫を覆うように海藻が生え、魚たちが泳いでいた。彼女が足を組みかえると小魚はさっと身を潜めた。海の底は白夜のように明るく静まり返っていた。
(いつもそうだよね。癒して、傷つける。なおして、壊す)
 彼女の声は穏やかだった。寝ているわたしの手足を拘束し海底に引きずり込んだにしては穏やか過ぎるほどだった。
(ね、今日は誰と一緒だったの?)
 わたしの声は声にならなかった。吐き出す言葉はことごとく白い泡と化した。
(なにも言わなくていいよ。わかってる)
 彼女は眼を細め、白い泡が光に溶けるのを見つめた。
(でも、忘れないで。あなたはここで死ぬの。この海の底で。わたしはここが好き。どんな場所もここにはかなわない。海に沈んだ古い都市。あなたはここでゆっくり死んでいくの。毎晩、わたしと一緒に)
 彼女は立ちあがるとわたしの首筋を噛んだ。赤い煙のようなものが視界の端に映った。わたしの血だった。狼煙のようだった。迫り来る危機を知らせようとしているのかもしれなかった。
(もう遅いよ)
 彼女の声が聞こえた。優しい声だった。

「遅いよ」
 彼女が言った。玄関を開けると彼女が立っていた。ごめん、と謝ってわたしは靴を脱いだ。卓上カレンダーを見る。八月。もうすぐお盆だった。
「いい匂いがする」
「ラタトゥイユつくってみたんだ。食べたいって言ってたよね」
 そんな会話を交わしながら、わたしたちは笑い合う。彼女はわたしがほかの女と寝てきたことを知っている。悟っている。
(あなたはそういう人。魅惑的な波にさらわれ、漂って、岸辺に打ち上げられる)
 でもわたしの居場所はここだった。帰るべき場所は、最後の漂着先は、ここ以外になかった。ここでわたしは彼女とすこしずつ死を積み重ねていく。
「ただいま」
 そう口にする。わたしの言葉がまだきちんと言葉でいられるうちに。白い泡になってしまう前に。
 彼女はわたしに背中を向けていた。でもわたしの声は聞こえていたはずだった。わたしは彼女の声を待った。

作家コメント
「藍瀬青」から「藍瑠れい」へ改名しました

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