青砥文佳「渇き」

貴女がもう、訪れることがないよう、私は引っ越しをする。貴女と歩いた街並みも、思い出さえ、棄てたかった。嫌いになったわけじゃない。
ただ、貴女との未来が怖かっただけだ。女、二人で何が出来るのだろう。臆病な私は逃げてしまった。
貴女の衣服を洗った洗濯機、貴女と一緒に買った食べ物を入れた冷蔵庫、何もかも売ってしまった。
勢いで決めた新しいアパートは空色をしている。満たされない思いと、空っぽの私。そこに住む私は痩せた鳥のように身体を震わせる。
床に散らばる就職情報誌。年老いた両親には頼れない。勿論、結婚したばかりの妹にも。溜息を吐き、立ち上がる。

衝動的に棄てたものを私はまた、欲しがっている。
厚手のカーテンの隙間から薄暗くなった世界が見える。もうすぐ、星が降りてくる。買ったばかりの冷蔵庫を開け、白色をぼんやりと眺める。
缶チューハイと魚肉ソーセージだけが置かれている。これでは心も空腹すら満たせない。
涙が溢れそうになる。暗いことばかりを考えてしまう。それでも、一人になるのが怖くて逃げるように昼間見かけた喫茶店に向かう。

振り向けば、闇に呑み込まれてしまう。重い扉を慌てて押し開け、胸を押さえる。
「いらっしゃいませ」
暗澹たる思いを払拭するようなテノール。珈琲の香りが鼻孔に、賑やかな声が耳に触れる。
空いた席に座り、かぶりを振る。壁にはセピア色の海が描かれ、インストゥルメンタルが揺れる波のように流れている。
白いテーブルに置かれた親しみやすいメニューを見ながら、アルバイトの青年に大盛りのナポリタンとクリームソーダを頼む。

ふと、艶やかな声に惹かれ、顔を上げた私は息を呑んだ。
瞳の大きな青年は何よりも私が美しいと思う顔立ちで私を見つめ、注文を繰り返している。
長い髪は揺れ、薄い唇に吸い込まれていく。
「お客様?」
「え? あ……な、何でもありません」
裏返る声に青年は華やかに微笑む。喉を鳴らす。口内が酷く、乾いていた。

参考 青砥文佳作者Twitter
作家コメント
喫茶店での百合はクリームソーダのように美しく、キラキラしております。

コメントを残す