あめやゆき「モンブラン」

鍵を回して冷たい扉を開ける。ただいまの声が暗い部屋に吸い込まれて、帰り道に積もっていた寂しさが、余計に重くなっていく。
恋人と別れた。
高校生の時から付き合って、もう十年くらい。
嫌いになったわけじゃない。好きな気持ちは、まだ残ってる。ただ、一緒にいるのが辛くなっただけ。
気付けばこぼれている、大きなため息。
久しぶりの一人暮らし。電気をつけても、部屋はどこか薄暗い。
二人で話し合って決めたこと。なのに。別れたその時から、後悔だけが膨らんでいく。
わずかに入ったヒビを見ないふりをして、ずるずると関係を続けていたって、いつか大きな亀裂になって、お互いを嫌いになっていたかもしれない。それはわかっているけれど、それでも、ああしていれば、こうしていれば、そんなもしもを考える。笑顔の彼女が、浮かんでくる。
重い体を床に落として、縛っていた髪を解けば、少しだけ気持ちが軽くなった。
ビニール袋を開いて、コンビニで買ってきたものを一つずつ、テーブルの上に置いていく。
「あ」
本当に、無意識だった。
袋の中からでてきた二つのケーキ。一つはティラミス。私の大好きなもの。もう一つはモンブラン。私が嫌いなもの。彼女が、大好きだったもの。
「あー、あー……」
氷を飲んだみたいに、胸の中が冷えていく。火を付けたみたいに、目の辺りが、熱くなる。
ぐちゃぐちゃと、でたらめに混ぜた絵の具みたいになっていく頭を抱えて、私はテーブルの上に突っ伏した。
喉の奥が苦しい。声は出ないのに、涙はとめどなく溢れてくる。仕事で押し潰していた気持ちが、バネみたいに跳ね上がってくる。
胸が詰まって、声が詰まって、涙が詰まって。
ため息とも嗚咽ともつかない息が、何度も、何度も、こぼれては消えていく。
別れたその時から大きくなっていた、お腹の中に開いた穴。
この穴は、いつかちゃんと、塞がってくれるのだろうか。
いつか、いつか、小さくなって、見えなくなって、気軽に話ができるようになるのだろうか。会えるように、なるのだろうか。
思い出の中の、友達だったあの頃みたいに。
そうなったらいいのに――弱虫な心は、そう思うのに、意気地なしな自分は、そうならなければいいのにと、ぎゅっと心臓を締め上げる。
だって、好きだから苦しいのに、それをなくしてしまうなんて、嫌いになるより、ずっと寂しい。ずっと苦しい。ずっと、辛い。
時計の長い針が反対側へ回る頃、ようやく涙も落ち着いてきて、私はおもむろに顔を上げた。
そうして泣き腫らした目で見つめたのは、テーブルの上。荷物の向こうにぽつんと置いてある、一通の封筒。
陽菜ちゃんへ。細い文字で私の名前が書かれている、かわいらしい絵柄の封筒。
落ち着いたら読んでね。そう言って渡された彼女の気持ちは、まだ開けられていない。
何度も手にとった。何度もひっくり返して、何度も透かして見て、けれど、どうしても封を切ることだけはできなくて、結局、元通り。
開けなくちゃ。見なくちゃ。わかっているのに、指は動かない。
だって、開けてしまったら、来てほしくない『いつか』が、すぐにでもやってきてしまいそうだから。
すぐにでも、私を蝕んでしまいそうだから。
だから、いつかなんていつまでもこないように、私は今日も開けられない。想いを閉じ込めた封筒は、今日もそこから、動かない。
溺れそうな気持ちがまたせり上がってきて、目の前が、ぐにゃりと歪む。
咳込むように大きく息を吐き出して、私は大嫌いなモンブランを手に取った。
甘くて甘くて、大嫌いだったはずのモンブラン。
久しぶりに食べたそれは、なんだか、砂の味がした。

参考 あめやゆき作者pixiv

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