はるかとおく「雨音にしか,私は」

雨の音が聞こえる.
湿った空気はけれど,机を軋ませるだけで,薄い制服は何事もなく私の身体を包む.

伏していた頭を起こす.
教室には誰もいない.
ここは誰の居場所でもない――私も,行くべきところがある.
知っている,けれど.
たるんだ袖口の向こう.
机の天板が目に入り,再び私は目を瞑る.


「すてきな杢ですね」

たったの一年前.そう声を掛けたのが遠い昔のようだ.
学園中が新入生で賑わう四月の放課後.
新入生だった私.
友人とはぐれて迷い込んだチャペル.
厳かな部屋の中に,賑やかな校庭を背にするあなたがいた.
誰もいない神聖な庭で,行儀悪く両足を開いて椅子に座るあなたの背徳を今でも覚えている.
大きく開かれた膝の間に置かれた大きなボディから伸びる幅広なネック.
6本の弦が張られたそれはエレキギターのようにも見えた.
けれど,遠目にも見える骨太な弦から弾き出される音.
その音は,たったひとつ目から,深く,低く,私の内蔵を鷲掴みにした.

指板の上を這うように動くしなやかな二本の手は,激しく,けれど繊細に無数の音を紡ぐ.
音楽といえば母が聴くクラシックの印象しかなかった私にとって,その鈍くて黒い音は衝撃だった.

人類の英知,秩序と歴史,正統にして荘厳.
そんな幻想を,妄想を,偽りを,あなたは荒々しく引き裂いた.
さして長くない,けれど私の全てだった十余年を,惜しむこともなく乱暴に破り捨てる.
野生の獣のような生命感に,自然と鼓動が早くなる.
抵抗しようもなかった.
逆らう気を起こす間もないまま,あっという間に蹂躙される.
まっさらな私のほんとうがさらされる.
そしてあなたの音色は,歌うように,踊るように,燃え盛る炎のように,私の全身を包み込む.
芯から蕩かすような熱があなただと分かる.
私達は,燃え上がる官能の渦に飲み込まれ,そして――

気付けば演奏は終わっていた.
獰猛な獣に襲われて,声もなく圧倒されていると,あなたは恥ずかしそうに笑った.
魔法は解けた.
獣なんていない.
私も,あなたも,制服を着た高校生だった.
静かに楽器を片付けるあなたは,まるで身寄りのない子猫のようで,声を掛けずにはいられなかった.


あなたが制服に袖を通すのは今日で最後.
静かなチャペルで,あなたは待っているに違いない.
挨拶をしなければならない.
言うべき言葉も分かっている.
けれど.

雨よ降れ,もっと激しく.
誰にも何も聴こえないように.

私が,明日も制服を着られるように.

参考 はるかとおく作者Twitter
作家コメント
誰もが祈れるものがあります.

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