えいな「Bitter」

 差し出されたカップを受け取って、一口飲んだ瞬間に私はう”っと低く悲鳴をあげることになってしまった。
「鞠子さん、これすっごく苦いんですけど……」
 そう言う私を悠々と眺めながら彼女はくすくす笑う。
 このひと、知ってたんだ。ムカつく。
 私はカップをテーブルの上に置いて、彼女を睨みつけた。白いカップの中には黒く沈んだ色の液体、つまりコーヒーが小さく揺れている。私だってブラックが飲めない訳じゃない。けれど、こんなに濃くて苦みが強いなんて思わなかったのだ。これはさすがに驚いてしまうと思う。
「言ってくれればよかったのに」
「あれ、私は言ったわよ?ベトナムコーヒーだって」
「その”ベトナムコーヒー”とやらがこんなに苦いなんて知らなかったんです!もうっ、これ全部鞠子さんにあげます」
 そう言って彼女に向かってカップを突き返す。
 それでもやっぱり目の前のこのひとはニヤニヤといじわるな笑みを浮かべたままだ。
「そう言わずに。底からちゃんと掻き混ぜて飲んでみて」
「掻き混ぜて?」
「そうよ、ほら」
 言われるがままに、手元にあったティースプーンでカップの底をなぞると、黒檀のような液体は明るいブラウンに変わった。ひとくち、口に含む。
「……あ、これ」
 さっきとは全然違って、強い苦みは影を潜め、液体は滑るように私の喉を通っていく。
「ベトナムコーヒーは濃いコーヒーに練乳を入れて飲むものなのよ。練乳は重いから底の方に溜まるの。ちゃんと掻き混ぜないとだめなのよ」
 そう解説して私にウインクする彼女。それ、もう少し早めに言ってくれればいいのに。
 そりゃ鞠子さんは私よりも10も年上で色んな国にも言ったことがあるって言うし、食べ物も飲み物も色んなことを知っている。それに比べて私は世間知らずのおこちゃまだ。
 彼女は何食わぬ顔で、自分のカップの底をスプーンでつついている。そう言えばこのひと、私よりも先に同じコーヒーを飲み干していたんだった。
 おしゃべりを続けていた私にはお構いなしで、自分で淹れたコーヒーに先に口を付けたかと思えば、すぐに飲んでしまっていた。
 あれ、でもそう言えば。そこで私はそのことに気付く。
「鞠子さん、さっきカップの中、全然掻き混ぜずに飲んでましたよね?」
 言うと、彼女は目を二度ほどぱちくりさせてから頷いた。
「そうよ」
「これは掻き混ぜて飲むものって、さっき言ってたのに」
「そうね。でも、私は苦いままの方が好きだから」
 言いながら、カップの底に残ったままになっていた練乳を掬い上げた。
「なんですかそれ」
「甘いのは、もうなくてもいいの、私には」
 その言葉にどんな意味があるのか、彼女のこれまでに何があったのか、私には分からない。
 このコーヒーにどんな思い出があるのかなんて、これっぽちも。
 私の手元には、このよく掻き混ぜられた苦みの消えたコーヒーしかなくて、あなたの感じた苦みを追いかけることさえ出来ない。
 それでも知りたいと思った。もっと、あなたのことを分かりたいって。
 差し障りのない甘い笑顔でその苦みを誤魔化さないで。
 いつも近くにいても、どことなく遠いように感じていた。
 あなたは何でも器用で上手にこなして、本当の気持ちさえうまく隠してしまう。
 だからきっと今じゃないとだめだ。
 だって本当に隠し通そうとするのなら、最初から掻き混ぜてって言ったはずでしょう?
 苦いのを飲ませた理由は、何なんですか。
「鞠子さん、これおかわりください」
「おかわりって……まだ残ってるみたいだけど?」
「もう一度、掻き混ぜないで飲んでみたいんです」
 戸惑うように揺れる瞳を真っ直ぐ見つめながら言うと、彼女は困ったように笑った。
「……物好きね」
「はい、好きなんです」
 だから、あなたの苦みを少しでも分かりたいんです。
 私じゃだめですか、鞠子さん。

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