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藍瀬青「snow,tail,blanket」

 ほんものなのよ、と彼女はいった。ほんものの馬の尻尾なの。さわってみない?
 五月の三週目、木曜日の夜だった。雪はまだやむ様子もなくテレビではニュースキャスターがこの時期にしては珍しいことですと白く染まった熊本城を映していた。架台にも櫓にも、そして樹齢八〇〇年を越すという御神木にも雪は降り積もっていた。熊本から引っ越したのは地震の一か月前だった。二〇一六年の三月三十一日。そのわずか二週間後に熊本に大地震が起きた。そのニュースをわたしは東京で聞いた。引っ越す前に熊本城の天守閣に登り、景色をよく目に焼き付けておこうと誓った。いまとなっては忘れられるはずがなかった。東京に来て三年。満員電車にも仕事にも慣れ、恋人もできた。ふたりともエルレガーデンが好きで(エルレ復活を知ってわたしたちは興奮し馬鹿騒ぎした)、かわいいメイドさんが好きだった。そもそも出会いのきっかけがメイドだった。初めてのメイド喫茶でどうしたらいいのかわからず、入口付近をうろうろしてたわたしに彼女が声をかけてきたのだ。
 高かったんだから。ポニーテールを自分でぴょこぴょこ動かしながら彼女はつづけた。馬よ。ほんものの馬。さわってみてよ。
 いや。わたしは栗色の尻尾に合わせて首を振った。化粧を落とし、髪をほどき、靴下も脱いだ。もうめんどくさいことはなにひとつやりたくない。ソファに深く埋まっていたい。
 お疲れだね。彼女はわたしの隣に座り毛布に入り込んだ。
 うん。わたしは彼女の肩にもたれかかり、眼を閉じた。疲れてる。何日も漂流してたみたいに疲れ切ってる。
 先にお風呂入ったら?
 彼女がわたしの髪を撫でながら訊ねた。すこし考えてから断る。 いまはいい。あとで入る。
 じゃあ、先に入っちゃうね。
 彼女は立ち上がるとお風呂場にむかった。彼女は決断も行動も早い。こうしたいと思ったらすぐ行動に移す。わたしとは正反対だ。わたしは何かを決めるまで時間がかかるし、決めても行動に移すまでさらに時間がかかる。
 初めて彼女の尻尾にさわったときも例外ではなかった。最初は動物の毛だとは知らなかった。メイド喫茶で出会い、連絡先を交換して付き合うようになったあと、このお団子はウィッグなんだよと彼女が教えてくれた(当時、彼女はお団子にしていた)。まったく気づかなかった。そういうと、ウィッグの色に合わせて髪を染めてるのだと彼女はいった。いまはアッシュグレー。前はショコラブラウン。
 似合ってる。わたしの言葉にありがとうと彼女は嬉しそうにほほえみ、さわってみる?とお団子を指さした。ほんもののうさぎの毛だよ。
 うさぎ?
 そう。動物の毛でつくられたウィッグをつけるのが好きなの。ぜんぶ抜け毛から集められたものだから、安心して。動物にかわいそうなことなんてしてない。
 安心といわれても。わたしは迷い、判断を保留した。あとで。あとでさわらせて。
 彼女はいいよと軽くいった。あとでね。
 でも、結局、実際にさわったのは一週間ほど経ってからだった。潔癖症というわけではない。ただ、勇気が出なかっただけだ。そのあいだうさぎの毛について調べた。換毛期にはうさぎが死ぬ確率が高いこともネットで知った。毛の生え変わりはうさぎにとって生死のかかった一大イベントだという。他人事とは思えなかった。わたしも自分を変えたくて思い切って引っ越したのだった。
 さわるよ。
 その夜、彼女に向かってそういうと彼女はふきだした。大げさすぎない? まるで初めてセックスするみたい。
 顔を真っ赤にしたわたしに、どうぞ、と彼女はお団子を向けてくれた。さわる。思ったよりやわらかかった。もっと硬い毛を想像していた。ほんとうに、うさぎの尻尾に触れているような感覚だった。気持ちよかった。でも、同時に、胸の奥でざわめくものがあった。それが寂しさだと気づいたのはずっとあとになってからだった。
寂しかった。うさぎの毛がほんものであればあるほど、そこにうさぎがいないのだと感じてしまった。ほかの動物でも同じだった。さわればさわるほど、気持ちよければいいほど、寂しさが募った。いつかわたしは彼女の尻尾にさわるのを億劫だと思うようになっていた。
 ほんものの馬の尻尾なの。
 その誘惑もわたしの心を動かすことはなかった。特に、いまは疲れている。疲れ切っている。彼女のポニーテールにさわるのは楽しいだろう。気持ちいいだろう。でも、その毛がほんものであればあるほど、わたしはそのあとに寂しくなってしまう。だから、いまはさわりたくなかった。
 お風呂場からは彼女がシャワーを浴びる音が微かに聞こえていた。毛布にくるまりなおす。さっきまで彼女と一緒にくるまっていた毛布。ぎゅっと強くつかんだ。
 寂しい。
 窓の外で季節はずれの雪は降り続けていた。彼女の脱いだ服を想った。はずされたウィッグを、ほんものの馬の尻尾のことを、想った。夜の波がわたしを沖へとさらい、わたしは溺れないよう必死に毛布を握りしめた。でも無駄だった。水滴を踏んで彼女がわたしの元へ帰ってくるまで、わたしは雪の降る夜の海に沈んでいた。

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