藍瀬青「靴」

 彼女はなにも盗まない。
 オートロックがかかったドアの内側で彼女は靴たちを見下ろした。黒いエナメルのピンヒールとブラックレザーのミッドヒールローファー、紺色のスニーカー、そしてランニングシューズが彼女に靴先を向けていた。主不在の部屋を守ろうとしているようだった。侵入者に敷居を跨がせないよう壁をつくっている。
 必要ない。玄関から先には入らない。彼女は靴箱に視線を移した。開ける。ブーツやサンダルに混じって流線的な飾りのついたローヒールパンプスが湿った薄闇に身を沈めていた。
 あなたね。彼女はパンプスを手に取った。あなたがわたしを呼んだんだね。
 彼女は年代物のスーツケースを持ち歩いていた。くたびれたトランクのなかには何種類ものブラシとクリーナー、クリームとワックス、そして清潔なクロスが入っている。彼女はパンプスを玄関にそっと置くとブラシをかけ始めた。
 靴に呼ばれ、靴を磨く。
 それが彼女の務めであり存在理由だった。自分が何者なのかはわからない。考えたこともない。ただひたすら手を動かす。淡々と自分の成すべきことを成す。靴が彼女を呼ぶ理由はいつも同じだった。
 綺麗にしてほしい。
 みっともなくないように。また履いてもらえるように。忘れられないように。靴たちの声に耳を傾けながらブラシをかけ、汚れを落とし、磨き上げる。
――初めてのデートで、早紀は私を選んでくれたの。
 磨かれながらパンプスは彼女に思い出話を語った。相手は読書会で知り合った女の子でね、一目惚れだったみたい。ふたりともゆっくりゆっくり歩いてた。一緒にいる時間をできるだけ長く、永遠に近づけようとするみたいに。帰り道だった。雨が降り出したの。ふたりはバス停で雨宿りすることにしたんだけど、走ったせいで早紀は右の踵を痛めてしまった。痛みが引くまでじっとしていようと女の子が提案して、早紀は頷いた。何台ものバスと車が通り過ぎて行った。「回送」表示のバスが走り去ったあと、ふたりは初めて唇を重ねたの。彼女の足元で靴は横に倒れていた。
 仕上げのブラッシングが終わるころにはパンプスは眠りについていた。起こさないよう優しく持ち上げて靴箱に戻す。もうすぐ部屋の主が帰ってくる。道具をしまい、鞄の金具をパチンと止めた。靴磨きの姿はもうどこにもなかった。オートロックが外れた。スーツ姿の女性が姿を現した。疲れた顔だった。今日も大変な一日だった。顧客からのクレーム対応で仕事は進まず、別の社員のミスを自分のせいにされて理不尽な叱責を受けた。ほんと、疲れた。早紀はため息をつく。玄関ライトがつきっぱなしだ。家を出るとき消し忘れたのだろうか。明るく照らされた玄関を見回す。なにも変わった様子はない。いつも通りだ。でもなんとなく彼女は靴箱を開ける。いつかデートに履いていったパンプス。
 この前会ったとき、つまらないことで喧嘩してしまった。自分に余裕がないせいだった。謝らなきゃと思ってたのに日々の忙しさにかまけて時間だけ過ぎてしまった。今日こそ電話しよう。謝ろう。
 早紀は靴箱を閉めた。さっきよりすこしだけ明るくしっかりした顔で靴を脱ぐと、スイッチに触れた。
 パチン。
 音を立ててライトが消えた。ありがとう、と声がした。ちいさな声だった。玄関は暗闇に包まれていた。

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