繁忙期の為11月中の更新はお休みさせていただきます。次回12月5日の更新となります。

藍瀬青「moon,cloth,steps」

 お腹が鳴った。「くぅ」とか「きゅー」といったかわいい音じゃなくて、「ぎゅるるるる!」と自己主張の強いガチなやつで、鳴った。
 営業計画についてテレビ会議で話し合っている最中だった。本社にいる役員のひとりが「この数字おかしくない?」と資料の内容について突っ込みを入れた瞬間に、わたしのお腹の虫が代理応答かましやがったのだった。
「――確認します」
 何事もなかったかのようにそう答えると、課長はこちら側の音声をミュートにした。
「藤川さん。ここの参照値たぶん間違ってる。確認してきて」
「はい」
「ついでに軽くなにか食べてきていいから」
「……はい」
 差し出された資料を受け取る。足早に会議室を出て、耳に触れた。熱い。廊下をゆっくりと歩いた。頭の中でタスクを整理する。元データの確認、修正、社内共有スレッドに書き込み、印刷。そして、
(――ごめんね)
 飢えと火照りを癒すこと。
 腕時計を見る。時間はない。でも、やるしかない。休憩室でゼリー飲料を買い、一気に吸うと、わたしは「よし」と小声でつぶやいた。

「――時間がないって言ったのに」
 フロアに人影はなかった。ほかの部署は電灯を落としてとっくに退社している。残っているのはわたしと課長だけだった。
「謝ったじゃない」
 課長――理瀬がデスクに置かれた紙を指でとん、と叩く。会議中に渡された資料だった。修正箇所が丸で囲まれ、その下にはうさぎの絵が描かれている。うさぎは吹き出しで「ごめんね」と謝っていた。
「こんなの、」
 謝ってるうちに入らない。いいかけて唇を噛んだ。こちらがなにをいったところで同じだ。この人は自分のしたいことしかしない。ほかの女と遊び歩いたあげく半休を取ったり、出勤前で時間がないっていってるのに無理やりベッドに引きずり込んだり、他人の迷惑をかえりみない。
「とにかく、理瀬のせいで朝ごはん食べ損ねるし会議中にお腹はなっちゃうし、さんざんだったんだから」
「すごい音だったね」思い出したのか理瀬は笑い声をあげ、「雷かと思った」
「……報告書、書き終わったからチェックして」
「フォルダ入れといて。明日チェックするから」理瀬はわたしのデスクから降りると「もう帰ろ? 終電なくなっちゃう」
「課長がそんな適当でいいの?」
「いいの。普段はちゃんと課長してるでしょ?」
「そうだけど――」
「それに素でいるのって藤川とふたりきりのときだけだから」
「……ちゃんとチェックしてくださいね、課長」
 理瀬は手をひらひらと振って「消灯チェックしてくるね」と出て行った。普段とのギャップに頭が痛くなる。まったく、あの人は。最初はこんなに適当な人だとは思わなかった。仕事ができる美人の上司として憧れさえ抱いていた。
 それなのに。
「藤川―。帰るよー」
 ドアから顔を覗かせて理瀬が鍵を揺らす。わたしは荷物をまとめると急いで彼女の元へと急いだ。
「月、綺麗だね」
 駅へ向かいながら理瀬がひとりごとのようにいった。知ってるよとわたしは胸のなかで答える。窓辺に落ちる月の光なら、もう飽きていた。理瀬がいない夜は眠れないまま月を見て過ごした。理瀬の忘れていった服を抱きしめ、月明かりに素足をさらした。
「いまくらいの季節がいちばん好き」
「……三か月前に同じ台詞聞いた気がするんだけど」
 秋も、冬も、春も、夏も。この人はいつだって調子よくそんなことを口にするのだ。
「そうだっけ?」
「覚えてない。でも、」雲間から月の光がこぼれるように理瀬は微笑んで「好きって感じたらきっと口に出すだろうから。そうなんだろうね」
 季節だけじゃなくて、ほかのものもそうだよね。言いかけた台詞を飲み込む。ほかの女の子にも好きって感じたら手を出すんだよね。
 めんどくさい女だと思われたくない。でもそう思えば思うほどめんどくさい女になっていく。気づけば理瀬の手を強く握っていた。
「終電。急がなきゃ」
 理瀬がなにかいうのを気にせず、小走りで階段をのぼる。改札は階段をのぼり切った先にある。もうすぐだった。でも理瀬の手はいつのまにかわたしの手から離れていた。振り返る。理瀬の姿はなかった。白く輝く月の光が階段に反射して、夜の底を銀色に染め上げていた。

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