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藍瀬青「煙草」

夜の廊下は煙草の匂いがした。
 当時、大学生だったわたしは木造住宅の二階に住んでいた。築40年にもなるそのアパートはあちらこちらにガタが来ていて、歩くたび廊下は軋みを立てたし壁越しに隣の部屋の生活音が聞こえた。それでも住み続けたのは家賃が格安だったからだ。お風呂も洗濯機もない四畳間だったけれど、銭湯もコインランドリーも近くにあって不便ではなかった。もうひとつ。大家のおばあちゃんの方針で入居者は女性だけだった。
「男はやかましかけん」
 入居者面接(そういうものがあったのだ)でおばあちゃんは首を振った。方言が強く、気も強かったけれど、焼き肉を奢ってくれたり野菜をわけてくれたり良い人だった。お世話になりっぱなしだった。
 だから住んでいる女性はみんな礼儀正しく常識をわきまえた女性ばかりだった。深夜に誰かが騒いだり大きな音がしたりといったことはいちどもなかった。
 隣に住む女性の元にはときどき恋人が訪れていた。なんどか見かけたことがある。恋人も女性で、髪を短く切りそろえていた。最初に見かけたときは革のジャケットにジーンズを着ていたこともあり、男だと勘違いしてしまった。室内では禁煙(おばあちゃん方針その2)だったので恋人さんはアパートの外で煙草をふかしていた。
 眼が合うと恋人さんは目尻をさげて軽く会釈した。こちらも会釈し、狭い階段をあがって二階へとのぼった。音楽やってそうな人だなというのが第一印象だった。わたしは人の顔を覚えるのが苦手なはずなのに、その人の顔は頭から離れなかった。やがてふたりぶんの足音が階段から聞こえ、廊下が軋んだ。隣の部屋のドアが開いて閉じた。ひそやかな話し声が壁を通して漏れ聞こえてきた。内容はわからない。輪郭の滲んだ水滴のようだった。不快ではなかった。
 恋人さんは外で一服してから彼女さんの部屋を訪ねるのが習慣になり、体に染みついた煙草の匂いは廊下にもすこしのあいだ漂った。ほかに煙草を吸う女性はいなかった。大学やバイトから帰り、廊下にいつもの匂いがすると、来てるんだとわかった。そんな夜はいつも以上に音に気を付けた。隣からはあいかわらず静かな話し声が雨音のようで、聞くともなく聞いているとわたしも雨のひとしずくに変わっていくような錯覚を覚えた。
 隣の女性が自殺したのは夏の夜だった。
 睡眠薬を飲んだらしい。わたしは友人の家に遊びに行っていて、ことの顛末を知ったのはあとになってからだった。
「なんがあったとやろねえ……」
 おばあちゃんはつらそうにため息をついた。第一発見者は恋人さんだった。すぐ救急車を呼んだが手遅れだった。遺書には「ごめんね」とだけ書かれていたという。
 なにかを言いかけておばあちゃんは口をつぐんだ。麦茶を飲み何度目かのため息を漏らした。わたしも黙り込んだまま、ただ、グラスの表面を伝って落ちる滴を見つめていた。

 煙草の匂いがした。
 隣室の女性が亡くなって数日後の夜、バイトが終わってアパートの階段をのぼると暗い廊下に煙草の匂いが漂っていた。
――来ている。
 隣の部屋のドアは開いていた。話し声や物音は聞こえなかった。明かりもついていない。迷ったけれど隣の様子を窺ってみることに決めた。何かあってからでは遅い。息をひそめ、できるだけ足音を立てないようにして、開いたドアからそっと部屋を覗いた。
 彼女がいた。見覚えのある短い髪。恋人さんは部屋の真ん中でこちらに背中を向け、うずくまっていた。わたしに気づいた様子はない。暗がりにうっすらとテーブルや本棚が浮かび上がって見えた。亡くなる前のままなのだろう。この部屋で女性と恋人さんは幾度もなんでもない言葉を交わし、ひそやかに睦言を重ねたのだろう。恋人さんは動かなかった。砂時計はとっくに割れてしまっていて、こぼれだした砂も闇に紛れているのに、落ちる砂の音を聞こうとしているようだった。耳を澄ませているようだった。

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