繁忙期の為11月中の更新はお休みさせていただきます。次回12月5日の更新となります。

藍瀬青「Goodbye Lily」

 20XX年、世界は百合の炎に包まれた。
 老いも若きも、男も女も、誰もが憑かれたように百合作品を求め、百合市場は空前のバブルを迎えた。だが嗜好の違いによる対立は激しさを増し、百合やくざによる派閥争いで死傷者が出たことをきっかけに政府は「健全」と認めた作品以外の出版を禁止した。事態は沈静化し、政治家と「良識のある」大人たちと利権を握った一部企業は祝杯をあげたが、実際は百合バブルを崩壊させ、百合難民を生み出しただけだった。やがて政府に認められない百合作品はネット上でひそかに売買されるようになった。百合ブラックマーケットの登場である。仮想通貨「black lily」でのみ購入可能なそれらを熱心な百合ファンはこぞって買い求めた。

「――うぇぇ」
 ドアを開けるなり、情けないうめき声がきこえた。塩辛とまちがえてミミズでも食べてしまったような声だった。
「まだなにも描けてないんですか」
 答えをきくまでもなかった。机に突っ伏した腕の横に、白い紙が何枚も重なり合っている。
「あー、うーん。すこしは……できたよ?」
「見せてください」
「ごめんさいできてません」
 上半身を起こしたかと思うと深崎美也はわたしに向かって深く頭をさげた。後ろで束ねた髪がぴょこんと揺れる。何日もお風呂に入っていないのだろう。脂じみて艶をなくしている。眼鏡の奥にはクマが色濃く、睡眠もろくに取っていない様子だった。
 深崎美也はかつて百合漫画家として名を知られた存在だった。だが最近は売り上げが低迷し、雑誌に名前を見ることも少なくなっていた。そこでわたしが彼女を口説き落とし契約を結んだのだった。
「どっちができてないんです?」
「どっちも……かな」
 えへへ、と照れたように笑う。
「可愛くないです。年を考えてくださいよ、年を」ひどい、つめたい、とわめく美也を無視して「罰としてお風呂に入ってきてください」
「お風呂が罰……? わたしは猫……?」
「行きますよ、ほら」
 美也の腕をつかんで立ち上がらせる。32歳とは思えないほど軽かった。食事もつくってあげたほうがいいかもしれない。

 出版エージェント。それがわたしの仕事だ。ただし普通のそれとは違い、ダークネットで取引される百合作品専門のエージェントだ。百合漫画家に政府ご禁制の百合作品を描かせ、代行でネット販売を行う。印税の一部がわたしの取り分となる。作家の相談に乗り、スケジュール管理を行い、作品をウェブに掲載し、販売する。漫画家で仮想通貨やダークネットについて知識のある人間は少ない。それにいまのご時世では通常の出版物はスキャンされてネット上に広まり無料で読まれてしまう。要は作家の収入がむかしに比べて大幅に減っている。皮肉なことにダークネットのほうが読者は漫画をちゃんと「買ってくれる」のだ。彼らは「応援する」ことが「お金を出す」ことだと理解している。「買う」行為は読みたいという「今日」の欲望を満たすだけじゃない。作品を生み出す作家とそのジャンルの「明日」を支える行為でもある。いつからかそんな基本的なことさえ忘れられてしまった。世知辛いが、だからこそ、わたしのような仕事が成り立つ。
――あなた、悪魔みたい。
 ある漫画家にそう言われたことがある。
――メフィストフェレス。
 責めるような口調ではなかった。誘うような試すような笑みを浮かべて彼女はわたしを見つめていた。

「お風呂で寝ちゃだめですよ」
「寝てないのに……」
 美也が瞼をこする。政府公認の漫画とダークネット掲載用の漫画と締め切りが重なり大変なのだろう。スランプ気味でもあった。描いても誰も読んでくれないかもしれない。期待にこたえられるようなものは描けないかもしれない。自縄自縛に陥りがちな彼女の話を聞くのもわたしの仕事だった。
「むかしと逆だね」
 美也の髪はシャンプーの泡立ちがよくない。力を入れて洗っているとそんなことを言われた。
「むかしはわたしが洗ってあげてたのに」
「大昔じゃん」咳払いして、口調を仕事モードに切り替える。「いいから、ほら、眼をつぶってください」
 美也の――姉の髪を洗い流す。一緒にお風呂に入り寝かしつけると、わたしはキッチンに立った。姉の漫画の最初の読者はわたしだった。誰よりも彼女の漫画を読みつづけたいと思っているのはわたしだ。そして姉がほんとうに描きたい漫画は「良識ある」方々にはとうてい認められないだろう。だからわたしがいる。
「わたしが守ってあげるからね。お姉ちゃん」
 胸の裡でつぶやき、わたしは包丁を振り下ろした。

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