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藍瀬青「乳歯」

田村さんの乳歯が抜けた。
 気持ちよく晴れた日曜日で、わたしは田村さんと遅い朝食をとっていた。ふたりとも低血圧で朝が弱い。頭もお腹も動いていない。朝はだいたいシリアルで済ませてしまう。その日もそうだった。窓の外はやっと春めいて、隣の家からは散歩をせがむゴールデンレトリバーの鳴き声が聞こえた。「むぁっ」という妙な声も聞こえた。田村さんからだった。田村さんは顔をしかめ、ちいさな指をちいさなお口に突っ込んだ。
「佐藤」
「はい」
「抜けちゃった」
 佐藤さんが涎まみれの指をわたしに向ける。親指と人差し指のあいだにちいさな白い歯があった。乳歯だった。
「抜けるものなんですね」
「初めてだよ」
「初めてですね」
 ふたりしてまじまじと乳歯を見つめてしまう。犬が大きく鳴いた。

 田村さんは年齢が毎日変わる。月曜日は14歳、火曜日は26歳、水曜日は37歳、木曜日は49歳、金曜日は52歳、土曜日は67歳。そして日曜日は7歳。
「どんな気分なんですか」
 聞いたことがある。
 67歳の田村さんは老眼鏡をはずし「めんどくさい」そうめんどくさそうに答えると目頭を揉んだ。

 下の乳歯だから屋根の上に投げましょうと提案したものの、わたしたちはマンション住まいでベランダから放り投げるのも気が引けた。
「どうでもいいじゃん」と渋る田村さんを無理やり連れだして然るべき場所を探しに出かける。田村さんには入社以来お世話になってばかりだ。わたしにできることは何でもしてあげたい。
 車を走らせたが乳歯を投げたくなるような屋根は見つからなかった。
「どんな屋根だよ。てか、他人様の屋根に投げるほうが失礼だろ」
 助手席で7歳の田村さんが唇を尖らせる。かわいらしい。
「……わかりました」
 たしかに田村さんの言う通りだった。もっとふさわしい場所がある。

「さあ、投げてください!」
 胸を張って田村さんに告げる。田村さんは「いや、あのさ」と難しい顔で
「なにか違くね?」
「どこが違うんですか? 最高のパワースポットですよ!」
 わたしは自信満々で鳥居を指さした。由緒ある神社で知る人ぞ知る隠れたパワースポットなのだ。
「鳥居の上に乳歯が乗れば願いが叶うんですよ」
「いやいや、ふつうは石だろ?」
「乳歯だから願いが叶う確率もアップのはずです」
「アップするかー?」
「しますよ」
 田村さんはため息をつき、「まあいいけどさ」と乳歯に眼を落した。「願いごと、ね」息を吐く。
 願いごと。田村さんはなにを願うんだろう? やっぱりちゃんとした体に戻りたい、ほかの人と同じように年を重ねたいということだろうか。わたしはどの年齢の田村さんも好きだった。普通の出会いをしていたらほかの年齢の田村さんを見ることはなかっただろう。
――馬鹿な子。
 いつかの田村さんの言葉を思い出す。
――こんなめんどくさい体なのに。女同士なのに。
 馬鹿でいいです。性別も年齢も関係ない。何歳の田村さんとも一緒にいたいんです。そう答えたときの田村さんの表情を思い出す。願い。すくなくともわたしの願いは、もう、かなっている。
「佐藤」
 田村さんがわたしを見た。
「肩車」
 いまの背丈じゃ無理だ、と不機嫌そうに付け加える。
「承りました!」
 わたしはしゃがみこみ田村さんを両肩にかついだ。足に力を入れてゆっくり立ち上がる。
「いけそうですか?」
「ああ。問題ない」
 動きが伝わってくる。重さ、体温、震え。田村さんの足首をしっかりと握った。大丈夫だよ。胸の裡でつぶやく。大丈夫だよ、田村さん。わたしはちゃんとここにいるから。田村さんを落としたりしないから。
 鳥居をまっすぐに見つめる。両脇に桜の木々を従えた鳥居。木々の枝先には近いうちに桜のつぼみがふくらむだろう。いまはまだつぼみの影もかたちも見えない。田村さんがふりかぶった。風に震えて枝がざわめき、やんだ。
 

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