ATライカ「ピアノ」

 夕暮れの部屋に響くのはピアノの音色。ピアノの前に座るのは一人の女性。その横に立つのは私。部屋に二人きり。
「とても綺麗」
 私がそう言うと、ふふっと彼女が笑う。
「ありがとう」
 ピアノの音色はゆっくりで。川の大きな流れを想起させる、彼女の緩やかな表現が私は好き。
「もうすぐ私は弾けなくなるけれど、貴女は弾き続けてね」
 うんと私は答える。今の彼女の指は細く弱々しい。
「私はね、貴女の強い心がこもった曲が好き」
 彼女がゆっくりと口ずさむ。
「貴女の音を聞くとね、私も強くなったような気がするの」
 私は声を震わせないように、音色の邪魔をしないように我慢をしていた。
「泣いてもいいのよ」
 首を振る。少しテンポが乱れた。
「私、貴女を泣かせようと弾いているのよ。気付いてる?」
 頷く。彼女が少し息を乱し始めた。少しの間のコンサートも今の彼女には毒で。
「私ね。貴女がいたから、今こうしてピアノが弾けているの。お礼を言わせて」
 最後の音が鳴った。
「ありがとう」
「私も……私も貴女がいたからここに立っていられるの。だから――

 私はピアノを弾くたび、彼女のことを思い出す。

 ――ありがとう」

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