藍瀬青「蝶が飛ぶ」

 絨毯の下には埃まみれの付箋が落ちていた。枯葉の下で冬を越す生き物のようだった。キャンディの空き袋や髪の毛の束と一緒に春の訪れを待っていたのかもしれない。春が来たよ。マスク越しにつぶやき、まとめてゴミ袋に入れる。開け放した窓から吹き込んでくる風はあたたかく、冬の名残りはどこにもなかった。
 付箋を貼る習慣はわたしにはない。掃除を終えるとわたしは本棚から何冊か本を抜き出し、ページをめくった。
付箋の跡は見つからなかった。
――この文章が好きなの。
 そう囁く秋乃の声も唇の動きもはっきり覚えているのに、彼女が付箋を貼った場所は思い出せなかった。どの本に貼ったのか見当もつかなかった。
 もともとわたしは本を読む習慣がない。でも彼女に勧められた本は必ず読むようにしていた。付箋の貼ってある場所は特に丁寧に読んだ。彼女のことが知りたかったし、彼女がどうしてその文章を好きなのか理解したかった。
 好きな人の好きなものを、わたしも好きになりたかった。
 秋乃とは高校時代のクラスメートだった。当時は挨拶を交わす程度でとりたてて仲が良いわけではなかったが、社会人になって偶然再会するとわたしたちは急速に親しくなった。告白したのはわたしからだった。本をめくる秋乃の白い指先や考え事をするとき軽く開かれる唇が胸を離れなかった。照れるたび赤く染まる耳が脳裏から消えなかった。いつまでも。瞼の裏で光を感じるように。
 秋乃はわたしの告白を受け入れ、やがてわたしたちは同棲した。終わりを告げたのは一か月前。
――好きな人ができたの。
 いつもの静かな口調で秋乃はわたしにそう告げた。仕事を終え、のんきにコンビニでプリンを買ってきたわたしは彼女が何を言っているのか理解できなかった。理解したくなかった。現実が遠かった。遠景のまま冬が過ぎ、春が来た。彼女はいなかった。
「春だよ」
 窓の向こうへ、遠くにいる誰かへ、そう呟く。眼を閉じる。
 瞼の裏で、蝶が飛んだ。

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